2024年3月22日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その5)

ユダヤ人の信仰告白は次のように始まります。 

「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」

(「申命記」6章4節、口語訳)

 

イスラエルの民は神様のことを彼らだけの神、「イスラエルの神」

と考えるようになっていましたが、

実際には神様は世の初めから常に唯一の神、すべての国民の神であられます

(「創世記」12章3節、「出エジプト記」20章3節)。

 

「彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、

それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」

(「テモテへの第一の手紙」2章6節、口語訳)

 

「あがない」とは、

人あるいは人々が金銭と交換されたり

自由の身にされたりすることを意味しています。

神様がキリストを死に渡されたのは、

人々が罪や死や悪魔から解放されて自由の身になれるようにするためでした。

そしてこの「あがない」の御業は神様が定められた時に起きたのです

(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、

「テトスへの手紙」1章3節、

「テモテへの第一の手紙」6章15節)。

 

「そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり

(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、

また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。」

(「テモテへの第一の手紙」2章7節、口語訳)

 

パウロは異邦人の使徒でした

(「ローマの信徒への手紙」11章13節、

「ガラテアの信徒への手紙」2章9節)。


「異邦人」とはユダヤ人以外のあらゆる国民を指す言葉です。

 

「わたしは真実を言っている、偽ってはいない」

と言って相手を説得しようとするパウロのやりかたは

「ローマの信徒への手紙」9章1節や

「コリントの信徒への第二の手紙」11章31節にも見られます。

 

パウロは信仰の真理を教えました。

これは人間の理性にとっては愚かなことですが

(「コリントの信徒への第一の手紙」2章6〜8節)、

それでもやはり揺るがない唯一の真理であることには変わりがありません

(「マタイによる福音書」7章24〜27節、

「テモテへの第一の手紙」3章15節、

「テモテへの第二の手紙」2章18節、

「ヘブライの信徒への手紙」10章26節)。


イエス様は真理についてピラトに対して次のように証しておられます。

 

「そこでピラトはイエスに言った、

「それでは、あなたは王なのだな」。

イエスは答えられた、

「あなたの言うとおり、わたしは王である。

わたしは真理についてあかしをするために生れ、

また、そのためにこの世にきたのである。

だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。」

(「ヨハネによる福音書」18章37節、口語訳)

2024年3月1日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その4)

ルター派の信仰では

「この世の権威」と「信仰的な権威」

という二つの権威を分けて考えます。

これは「二王国論」とも呼ばれています。


この世の権威は法に基づいて機能しますが、

信仰的な権威は福音に基づいて活動します。

これら二つの権威は互いに混同してはいけません。

また一方が他方の領域に干渉すべきでもありません。


「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、

王たちと上に立っているすべての人々のために、

願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」2章1節、口語訳)

 

「人々について祈るべき事柄を第一に神様に述べなさい。

その後で彼らに対して神様についての話をしなさい」

という古くからある良い助言は

上節でパウロの与えている指示と調和するものです。

 

「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、

真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」

(「テモテへの第一の手紙」2章2節、口語訳)

 

「信心深さ」はギリシア語では「エウセベイア」と言って、

牧会書簡では合計10回用いられています

(「テモテへの第一の手紙」2章2節、3章16節、4章7、8節、

6章3、5、6、11節、「テモテへの第二の手紙」3章5節、

「テトスへの手紙」1章1節)。


口語訳での翻訳は「信心」あるいは「信心深さ」になっています。

なお牧会書簡以外の手紙ではパウロはこの単語を一度も使用していません。

 

「神は唯一であり、

神と人との間の仲保者もただひとりであって、

それは人なるキリスト・イエスである。

彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、

それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」

(「テモテへの第一の手紙」2章5〜6節、口語訳)

 

これらの節でパウロは

初期の教会の信仰告白あるいは礼拝式文を引用しています。

 

神様は唯一なので、信仰と洗礼もただ一つです

(「エフェソの信徒への手紙」4章5節)。


ただ一つの洗礼しかない以上、

再度洗礼を授けたり受けたりすることは誤った行為であると言えます。


古い歴史をもつキリスト教会では

三位一体なる神様の御名すなわち

御父、御子、御霊の御名によって洗礼を授けられた人に

再び洗礼を授け直すことはしません。


しかし

キリスト教以外のやりかたで施行された「洗礼」を受けた人が

キリスト教会の会員になる場合には、

その人にキリスト教の洗礼を授けます。

2024年2月23日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その3)

すべての人は救いへと招かれている(その3)

「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節  

パウロはこの箇所で「すべての」という単語を三度用いています

(2章1、4、6節)。

さらに7節の「異邦人」という単語には

「すべての異邦人」という意味合いがあります

(「創世記」12章1〜3節を参照してください)。

 

またしてもキリスト教会にグノーシス主義の異端が入り込み、

「秘密の知識」の重要性を強調し、

ごくわずかな選ばれし者たちのみがこの知識にあずかって

救われることができると主張しました。

同様の対比は

パウロが信仰の真理について述べている箇所にも見ることができます

(2章4、7節)。


しかし本物の真理は神様の真理であって、

グノーシス主義者の言う「秘密の知識」などではありません。

 

この世の良い権力者たちは福音を広めていくために役立つ場合があります。

初期の教会の時代のローマ帝国は平和でした。

この「ローマの平和」(ラテン語でPax Romana)は

広大な帝国の領域で福音宣教を展開していくことを容易にしました。

それに対して

戦争と動乱は福音宣教の妨げとなります。

ですから

キリスト信仰者はこの世の権威のために祈らなければなりません

(2章2節)。

 

戦争と動乱の場合とは異なり、キリスト信仰者への迫害は

信仰者が増え広がっていくことの妨げとなるどころか、

往々にしてむしろ逆のことが起きるきっかけとなりました。


ローマ帝国では皇帝コンスタンティヌスⅠ世が300年代に

キリスト教をローマ帝国の国教と認定するまでに

約一千万人のキリスト信仰者が迫害によって殉教の死を遂げた

と推定されています。


このように歴史を通じて殉教者たちの流した血は

キリスト教信仰が広がっていくきっかけとなってきたのです。


二十世紀での共産主義諸国でのキリスト教迫害においても

同じ奇跡が繰り返されました。


2024年2月15日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その2)

すべての人は救いへと招かれている(その2)

「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節

 

「神は唯一であり、

神と人との間の仲保者もただひとりであって、

それは人なるキリスト・イエスである。」

(「テモテへの第一の手紙」2章5節、口語訳)

 

どうして神様はすべての人が救われることを望まれるのでしょうか。

良い人々だけを御許に招待なさることもできるのではないでしょうか。


しかし「良い人々」はそもそもこの地上に存在しないため、

彼らを招こうとしても意味がありません。


この問題は聖書の啓示する神様こそが唯一の真の神であることと

本質的に深くかかわっています

(「イザヤ書」44章6節、45章5、14、18、22節、46章9節)。


人を救ってくれる他の神は存在しません。

神様と人の間を仲介する存在もお一人しかおられません。

このお方こそがイエス・キリストなのです

(「イザヤ書」42章8節、48章11節)。

 

「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。

万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。

また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。

万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」8章6節、口語訳)

 

救われることを願うすべての人間は神様にお仕えするのが当然です

(「イザヤ書」45章23節)。

天の御国に通じる道は次の聖句が教えているように

ただ一つしか存在しないからです。

 

「イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

 

「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。

ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」

(「ヨハネの第一の手紙」2章2節、口語訳)

 

もしも神様がイエス・キリストという救いの道に招いてくださらないなら、

人間が救われる可能性はまったくありません。

 

しかしここで考えるべきことがあります。


神様がすべての人の救いを望んでおられるということは、

すべての人が救われるという意味でもあるのでしょうか。


全能なる神様は御自分の望まれることを

いつでも実現できるはずではありませんか。


どうして神様が人間全員を救われないのかという問題は

私たち人間には完全には理解できない事柄です。

しかし聖書が明瞭に証しているように、

残念ながら天国に入れない人々も現実にはでてきてしまいます

(「テモテへの第一の手紙」1章18〜19節、4章10節、

「マタイによる福音書」23章37〜38節、

「ルカによる福音書」7章30節、

「ヨハネによる福音書」5章40節、

「使徒言行録」7章51〜58節)。


たしかにすべての人が救われることは原則的にはありえます。

しかし救われたがらない人々もいるということです。


どうして神様は人が不信仰に留まる可能性をあえて残して、

すべての人が是が非でも救われるように強制なさらないのでしょうか。


この疑問への答えはこの世では私たちに与えられないまま

謎として残されるのです

(「ローマの信徒への手紙」8章29節、

「ペテロの第一の手紙」1章2節)。

2024年2月12日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その1)

 キリスト教会に与える生き方の指針

「テモテへの第一の手紙」2章

 

「テモテへの第一の手紙」の2〜3章では、

教会の礼拝はどのように行うべきであり、

教会に仕える職員たちはどのような者でなければならないか

について様々な指示が与えられています。

 

 

 

すべての人は救いへと招かれている

「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節(その1)

 

律法学者エズラの時代(紀元前400年の中頃)に

ユダヤ人たちはこの世の権力者たちのために祈るようになりました

(「エズラ記」6章10節、7章23節)。


預言者エレミヤはバビロニヤに囚人として連れて行かれたユダヤ人たちに

バビロニヤのために祈るように奨励しました。

 

「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、

そのために主に祈るがよい。

その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。」

(「エレミヤ書」29章7節、口語訳)

 

パウロの時代のキリスト信仰者たちは

この世の権力者たちのために祈ることにためらいを感じていました。

ローマ帝国では皇帝を神として崇める偶像礼拝が支配的だったからです。

それに加えて

ローマ帝国はキリスト信仰者たちを迫害していたからです。


例えば「テモテへの第一の手紙」の書かれた時期の

皇帝ネロ(在位期間は54〜68年)の迫害で

パウロとペテロが殉教の死を遂げています。

 

「神は、すべての人が救われて、

真理を悟るに至ることを望んでおられる。」

(「テモテへの第一の手紙」2章4節、口語訳)

 

しかし神様はすべての人が救われることを望んでおられるため、

キリスト信仰者はすべての人のために、

すなわち迫害者のためにも祈らなければなりません。

 

ある中国人キリスト信仰者が信仰のゆえに投獄されました。

投獄や拷問から守ってくれない神様を信じる理由を拷問者が問いただすと、

このキリスト信仰者は

「もしそうでなければ、

いったい誰があなたがたにキリストについて語ることができるのか」

と答えたそうです。


迫害にもかかわらず

このキリスト信仰者は神様がすべての人を、

キリスト信仰者を拷問する者も含めて、

救いへと招いておられるとわかっていたのです。

2024年2月2日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック「テモテへの第一の手紙」1章18〜20節  忠実であれ!

 忠実であれ!

「テモテへの第一の手紙」1章18〜20節

 

「わたしの子テモテよ。

以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って、この命令を与える。

あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、

りっぱに戦いぬきなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」1章18節、口語訳)

 

ここでパウロはテモテに新たな指示を与えています

(1章3節も参照してください)。

テモテにはエフェソに残った目的があったのであり、

それを実現しなければならないのです。

 

パウロの同僚になった時にテモテは預言の言葉を受けたのだと思われます

(「使徒言行録」16章1〜3節、「テモテへの第一の手紙」4章14節)。

パウロの場合も自分が使徒としての召命を受けたことの確証として

テモテと同じように預言の言葉を神様からいただいています

(「使徒言行録」13章1〜3節、9章15〜16節)。

どちらの預言の言葉もパウロとテモテがキリストの福音の宣教者に

正式に任命されたことを明らかに証しています。

 

テモテがパウロと共に伝道の旅に出発したのは約12年前のことでした。

それ以来、テモテは自分に委ねられた使命に対して

忠実であり続けなければなりませんでした

(「テモテへの第一の手紙」6章20節)。

 

「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。

その中に、ヒメナオとアレキサンデルとがいる。

わたしは、神を汚さないことを学ばせるため、

このふたりをサタンの手に渡したのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章19〜20節、口語訳)

 

人々が心の内にかかえている疾しい良心は

しばしば様々な異端の教えの蔓延するきっかけを与えてきました。

人は自分の人生が神様の御言葉と調和していない時、

自分の生活を変えるのではなく、

むしろ神様の御言葉のほうを改変しようと試みるものだからです

(「テモテへの第一の手紙」3章9節、4章1〜2節)。

 

人が信仰を失ってしまうことは現実に起こりえます。

上節でパウロは二人の具体例を挙げています。

おそらくこれはエフェソの教会での出来事だったと思われます。

 

テモテへの第二の手紙」2章17〜18節にもヒメナオの名が出てきます。

その箇所によれば彼は復活がすでに起きたと主張しました。

 

「テモテへの第二の手紙」4章14節に述べられているアレキサンデルは

上掲の箇所のアレキサンデルと同一人物である可能性があります。

それに対して

「使徒言行録」19章33節に出てくるユダヤ人アレキサンデルは

別の人物であると思われます。

なお「アレキサンデル」は古典古代ではありふれた名前でした。

 

パウロが二人を「サタンの手に渡した」目的は

彼らが偽りの道から離れて正しい信仰へと戻るように促すことにありました

(「コリントの信徒への第一の手紙」5章1〜5節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章5〜11節も参照してください)。

これは具体的には

教会から除外すること、少なくとも聖餐式に参加できなくすること

意味していたと思われます

(「コリントの信徒への第一の手紙」5章13節、

「マタイによる福音書」18章15〜18節)。

 

上掲の箇所に書かれている事柄は

「テモテへの第一の手紙」がパウロの純正の手紙であることの

証拠のひとつとみなすことができます。

この手紙が何十年も後に書かれたのだとしたら、

その時点では事実上まったく意味を失っていた事柄について

なぜこれほど詳細に書かれているのかが説明できなくなります。

ヒメナオとアレキサンデルが実際には何十年も後の時代

(すなわち、この手紙がパウロ以外の者によって書かれたとされる時代)

に生きていたものと想定し、

かつパウロが彼らの異端を断罪することが

「テモテへの第一の手紙」1章19〜20節の目的であったとする仮説は

さすがに無理があります。

この場合に、

パウロは自分が死んでから何十年も後に起きた事件を

手紙で取り上げることになるわけですから、

手紙の読者はすぐにその矛盾に気が付くことでしょう。

2024年1月25日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章12〜17節 罪人たちのうちでも最大の罪人が恵みをいただいた

 罪人たちのうちでも最大の罪人が恵みをいただいた

「テモテへの第一の手紙」1章12〜17節

 

「わたしは、自分を強くして下さった

わたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。

主はわたしを忠実な者と見て、この務に任じて下さったのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章12節、口語訳)

 

ようやくこの箇所からパウロの感謝と祈りが始まります。

上節でパウロは神様が彼を使徒として召してくださったと述べています。

パウロ自身は別の生き方をしようとしていましたが、

神様はダマスコへ向かう途上の彼を

御自身の福音伝道のために召命なさったのです

(「使徒言行録」9章1〜6節)。

 

上掲の節にもあるように

パウロは神様から使命だけではなく

それを実行するための力もいただきました

(「フィリピの信徒への手紙」4章13節)。


福音伝道の仕事は常に神様の助けと力によってなされます。

人間の力によっては何の成果ももたらさないからです。

 

「わたしは以前には、

神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。

しかしわたしは、これらの事を、

信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、

あわれみをこうむったのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章13節、口語訳)

 

かつてパウロはキリスト教会を滅ぼそうと試みました

(「使徒言行録」9章1節、22章4〜5節、26章9〜12節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章13節)。


その時のパウロは

自分がいったい何をしているのかわかっていませんでした。

彼はキリスト信仰者たちを迫害することで

神様に仕えているつもりになっていましたが、

その実、神様に対して無謀な戦いをしかけていたのです。


十字架上でイエス様は

御自分を十字架につけた者たちのために祈られました。

彼らは自分が何をしているのかわからずにいたからです

(「ルカによる福音書」23章34節)。


人間は自分の知恵に頼り続けるかぎり

活ける神様を正しく知るようになるどころか、

むしろ神様に戦いを挑むことになります

(「使徒言行録」3章17節、17章30節も参照してください)。


神様の御意思にわざと反抗することは、

すでに旧約聖書でも、

無知のゆえに犯した罪よりも厳しい裁きを受けています

(「民数記」15章22〜31節)。


神様の御意思を故意に破ることは神様を侮蔑することです

(「使徒言行録」9章4節も参照してください)。

 

「その上、わたしたちの主の恵みが、

キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。」

(「テモテへの第一の手紙」1章14節、口語訳)

 

神様の恵みは人間の罪深さよりも常に大きいものです。

次の御言葉にあるように、恵みは常に罪を上回るからです。

 

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。

しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、

わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」

(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節)。

 

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」

という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。

わたしは、その罪人のかしらなのである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章15節、口語訳)

 

「この言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は

牧会書簡に典型的な言い回しであり、

全部で5回登場します

(「テモテへの第一の手紙」3章1節、4章9節、

「テモテへの第二の手紙」2章11節、「テトスへの手紙」3章8節)。


「テモテへの第一の手紙」4章9節では上記の1章15節の

「そのまま受けいれるに足るものである」というところまで同一です。

 

パウロは自分のことを「罪人のかしら」すなわち最大の罪人である

と言っていることは注目に値します。

彼は自分が「罪人のかしらであった」とは言わずに

罪人のかしらなのである」と言っています。

すなわち彼はこの手紙が執筆された時点でも

自分が依然として罪人のかしらであると告白したいのです。


私たちはこれをたんなる修辞的な表現とみなすべきなのでしょうか

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章9節や

「エフェソの信徒への手紙」3章8節も参照してください)。


パウロは他の人々の罪の量の大小を

どのようにして知ることができるのでしょうか。


基本的に人間は自分の罪深さを他の人々と比較することができないし、

またそうすべきでもありません。

むしろ自分の罪深さは

神様の律法や御意思と比較することによって推し測るべきものです。

そうするとわかるように、

神様の御前で人は各々が最大の罪人なのです。


ここで、パウロが最大の罪人になったのは

キリストに従うようになってからであり、

悔い改める前の彼は自分が義人であり良い人間であると感じていた

という点に注目しましょう。

 

「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、

キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、

そして、わたしが今後、

彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」

(「テモテへの第一の手紙」1章16節、口語訳)

 

パウロの言葉には手紙の読者に慰めを与えるという意味もあります。

もしも神様が最大の罪人を憐れんでくださったのなら、

神様はもっと小さな罪人たちのことも(すなわち誰であろうと)

憐れんでくださることになるからです。


キリストは罪人たちの救い主です

(「マタイによる福音書」9章13節、「マルコによる福音書」2章17節、

「ヨハネの第一の手紙」3章5節)。


イエス様は次のように宣言しておられます。

 

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、

罪人を招いて悔い改めさせるためである」。」

(「ルカによる福音書」5章32節、口語訳)

 

不信仰こそがすべての罪の根源であり、

人間を偽りの宗教性に陥れ、

神様の与えてくださった約束への不信を焚き付けます

(「ヨハネによる福音書」16章8〜9節、

「フィリピの信徒への手紙」3章2〜6節)。

 

「世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、

世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アァメン。」

(「テモテへの第一の手紙」1章17節、口語訳)

 

この節の讃美には当時の礼拝での祈りが引用されていると思われます

(6章15〜16節も参照してください)。

 

神様は私たちの目には見えません。

このことは、神様を模す様々な像を作ることが不可能であり、

実は神像の製作者たちが神様ならぬ偶像を崇拝していることについて

注意を喚起します(「イザヤ書」44章9〜20節)。


上掲の節は活ける真の神様は唯一の存在であることを教えているのです。

 

神様が可視的な存在ではないということは、

人間には神様そのものを見ることが決してできないという意味でもあります

(「出エジプト記」33章20節、「ヨハネによる福音書」1章18節、

「ヨハネの第一の手紙」4章12節)。